電車の中で
電車の中で起こったこと。
おそらく、AはBが車内でマスクを外したことを注意したのだろう。
Bは片手にハイボールの缶を持っていて、Bも、Bの連れらしき女性も顔が赤かった。
AとBは静かな声で口論しながらヒートアップしていき、いつの間にか、どちらかが声を荒げ、その声は近くにいる人々の耳に入った。
僕もそこで初めて、AとBが口論していることに気付いた。
Aは何かを怒鳴り、Bは「お前弁償しろよ」と言った。
するとAは、溜まりかねた様子で非常ボタンを押した。
車内にアラームが響き、まだ気付いていなかった乗客もみんな事態を察し、AとBに注目が集まった。
電車はちょうど駅に着いたところで、ドアが開いた。
AはBをしばらく睨んでいた。
しかし、Aは電車を降りて行ってしまった。
一呼吸遅れて、「どなたか非常ボタンを押されましたか?」と呼びかけながら車掌がやってきた。
乗客の一人が「ボタン押した人、降りて行っちゃいました」と伝えると、車掌は慣れた様子で「すぐに発車します」と言い、踵を返した。
たったそれだけのことだった。
僕は思った。
●非常ボタンを押すと、こんな音がするんだなぁ、ということ。
●乗客の誰も、僕自身も、何が真実か、AとBのどっちが悪いのかなんて全く分からなかったが、とりあえず関わりたくないと思っていたこと。それが全員の総意だと肌で感じたこと。
●Aが非常ボタンを押すモーションがあまりにも手慣れていて、ゾッとしたこと。( 彼は素早く非常ボタンのカバーをスライドさせて、流れるような手つきでボタンを押したのだ。まるで初めからシュミレーションしていたか、あるいは手慣れた動作を行うようにカバーをスライドさせて、滑らかにボタンを押したのだ )
この件に関して何も言及するつもりはない。
フラストレーションが溜まりやすい季節と、時代と、社会と、コロナ禍真っ只中なのだから。
ただ、少し昔のことを思い出した。
アメリカ滞在中に、某国の方からこう言われた。
「日本の駅にはゴミ箱が置いてある。クレイジーだ」
意味不明だったので、「なんで?」 と聞いたら
「テロリストが爆弾を仕掛けるから」と言われた。
僕は「クレイジーなのはテロリストの方だよ」と返したつもりだったが、どうも真意がうまく伝わらなかった。
あれからしばらく経って、気が付けば、日本の駅からはゴミ箱がずいぶん減ったように思う。
僕が知らないだけで、非常ボタンは毎日押されているのかもしれない。
ずっと前から非常事態のアラームが鳴り続けていたのかもしれない。
そのことを、僕は悲しいと思ってしまう。
甘いのだろう。
だろうか?